「清々しき人々」日本の近代医学を開拓した 北里柴三郎

コッホの研究室に留学

 そこにはやはり肥後国の出身で、古城医学校では同期であった緒方正規がすでに三年前に東京医学校を卒業して内務省衛生局試験所の所長に就任し、東京大学教授も兼務していました(図2)。その緒方の斡旋で北里は三二歳になった一八八五年からドイツに留学することになります。北里は幕末から明治にかけての日本で何度も流行して多数の国民が死亡している伝染病を予防するための研究を目指すことにします。

図2 緒方正規(1853-1919)

 そこで当時の細菌学の権威で、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見し、一九〇五年にはノーベル生理学・医学賞を受賞するベルリン大学のR・コッホ(図3)に師事して研究を開始します。北里が優秀であったことを証明する逸話があります。一八八七年に陸軍省医務局長の石黒忠悳が北里に「近代衛生学の父」とされるM・J・フォン・ペッテンコーファーの研究室に移動することを要請しますが、コッホが手放さなかったのです。

図3 R.コッホ(1843-1910)

ジフテリアの血清療法を開発

 留学して四年が経過した一八八九年に北里はコッホの指示で破傷風菌の純粋培養の研究を開始し成功します。破傷風菌は一八八四年にドイツの研究者A・ニコライエルが発見していたました。しかし、その菌だけを純粋培養することには成功していなかったのですが、北里が見事に達成しました。これは医学界に衝撃をもたらしましたが、北里はさらに菌を少量ずつ注射して抗体を生成させる血清療法まで開発してしまったのです。

 この血清療法をジフテリアに応用し、その成果を一八九〇年の『ドイツ医学週報』に「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫について」という論文にし、同僚であるE・A・フォン・ベーリング(図4)と共著で発表しました。当時、ジフテリアは感染すると四〇%は死亡するという病気であったため大変な反響でした。しかし、一九〇一年の第一回ノーベル生理学・医学賞はベーリングの単独受賞になってしまいました。

図4 E.A.ベーリング(1854-1917)

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